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地震直前の榛名山雪中キャンプ~その2~ [旅]

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日が明けて2011年3月11日。

トランポの2階テントの生地はあまり光を通さない。なので目が覚めた頃にはお日様が結構昇って明るくなっていた。
テントの内側は氷がびっしり張り付いてキラキラしている。
枕元に置いておいたペットボトルの水は凍っていた。
暖かい寝袋から出るのは勇気がいる。意を決して外に出た。
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車の外に出てみると、無風、快晴のすばらしい天気である。
しかし車にもバイクにも白いものが積もっている。霜というレベルの量ではないので雪だと思う。昨夜夜中も晴れていたはずだが、明け方少しだけ降ったようだ。
一面真っ白で朝日を浴びてキラキラ輝いて、とてもきれいだ。
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朝飯の支度をゆっくりと始めた。
昨日のラーメンの残り汁は冷凍保存されていた。これを温めてスープ代わりとする。
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主食はパン。はさむ物にはチーズとバジルソーセージ。ソーセージは凍っていた。
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そして昨夜の残りのキャベツがある。これもはさめば立派なソーセージドッグだ。キャベツは・・いやはや、これも凍っていた。切るのが面倒とばかりに直接かじる。シャリシャリとした歯ごたえに、融けてくると口の中に甘みが広がってきた。生のときより甘いのではないだろうか?そこへ凍ったソーセージをはさんだパンもかじり、口の中で完璧なソーセージドッグを組み立てる。
うまい!(安っぽい人間である)
デザートにはバナナ。これも半凍状態だった。
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冷凍状態の食い物が続くが、熱い激辛スープはあるし、風がないから、日の当たる背中などポカポカしてきて、ジャケットなど着てなくても一向に寒くない。
雪中・耐寒キャンプでこういう朝を迎えられると、また性懲りもなく次回を‥となってしまうのである。



キャンプ道具を片付け、これからどうしようかと見上げると、そこには榛名富士がそびえていた。登ってみるか。午後は雲が出てくるらしいので、行くなら今だ。残った食い物や水を背負い込むと、バイクにまたがって出発した。
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榛名湖畔の温泉旅館街の裏に榛名富士への登山口がある。
登山道には足跡などいっさいなかった。よーく見ると、なだらかに窪んだ跡が恐らく人の足跡であろう。その他新しい足跡はうさぎ、テンかイタチ?、シカなどの動物ばかり。
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人の足跡の片鱗を追って斜面を行くが、ときたま足跡の窪みか、単なる窪みかわからなくなる。五感をフル稼働して道を探す。木にピンクのビニール紐が結んであるのに当たれば、間違ってないことを確かめられる。動物の足跡は人の通り道とはまったく違ってた。ここはなんとしても人の道を追うしかない。動物とは体重が違うので、道をそれると変な陥没などに落ちる恐れもあるのだ。
あまり雪を被っていない人の足跡を観察すると、どうやら先人は「かんじき」を履いていたようである。
こちらはいつものソレルのスノーモービル用ブーツである。

そのうち雪の深さが太ももまでくるような斜面があり、泳ぐようにそこを抜けたところで榛名湖を見下ろした。旅館もまだ見えるところだったが。山頂の方を見ると雲がかかりつつあった。もう今日はこのまま雲が増えて快晴は望めないのだろう。まだまだ行けそうだし、道も判る。あと1時間も費やせば山頂くらい行けるかもしれないが、別に使命感もないのでここで戻ることにした。少なくとも冬の榛名富士のほんの一端は感じることができたし。
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トランポにバイクを積み込むと、向かった温泉は伊香保温泉。何年ぶりであろう。

伊香保温泉の名物の石段は工事中だった。土肌が広がって見渡しよく、妙な景色である。
目指す温泉は石段の途中にある、その名も「石段の湯」。前に入ったのはいつだろう。もうどんなお湯だったか忘れてしまった。
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お湯は土色をしていた。さらっとした湯で無臭。風呂の淵にはその土のような湯の花が溜まっている。すぐに溜まってくるほど豊富で、泥パックができそうである。
入湯料は¥400。


★★この後、1000年に一度の大地震発生★★
ここからは少し詳細に東北太平洋沖地震発生以降のTSO(T)の様子を書きとめておきます。

温泉を堪能し、いよいよ帰るだけ。既に14時頃。途中どこかで遅い昼飯を食おう。
食べる予定ではないが、水沢うどんで有名な水沢観音を通るルートをとった。ずっと昔、偶然立ち寄って、跳ね返すような腰のあるうどんをゴマだれで食べて感動したところだ。しかし今回は貧乏なので、指をくわえて道沿いにたくさんあるうどん屋を通過していった。

その時である。

下りで左右に緩やかにカーブが続く道で、車が急に左右にふわんふわんと妙な揺れ方をした。
パンク?!
いやしかし左右ほぼ均等に揺れる。片輪ならどちらかに傾くだろう。サスペンションが壊れた?
故障だと面倒だなあ、と思いつつ、ちょうど右から道が合流するところの安全地帯に車を停めた。
すると停まっても車が激しく揺れている。目の前にある街灯の電柱がぐらぐら揺れていた。地震だ!

早速ラジオをつけた。ラジオから流れる地震情報はただならぬ様相を呈していた。
震源は東北沖。震度7。太平洋側に大津波警報が出た。しかも8mとか言っている。これを聞いたとき、大きめに見積もって注意を促してるんだと思った。
そのまま車を止め続け、ラジオに耳を傾ける。
その後も何度も地面が揺れた。こりゃ普通じゃない。

震源から遠く離れた東京で、ビルから火災が出たという。でも震度6くらいなら、今の東京、大事にはならないだろうから、地震とは関係ない火事だと思った。
津波到達時刻の15時までそこにいたが、まだ津波も来ないようなので出発した。


そのうちラジオで津波到達の実況が始まる。最初50cmくらいだったのが、港の桟橋と水面の区別が付かない高さになった、町へ水が流れ込んでいる、車が流されていると、どんどんすごいことになっている。テレビではリアルタイムで映像を流しているようである。見てみたいがワンセグはないし、カーナビのモニターはリモコンの電池がなくてアナログテレビに切り替えられない。

また車が走行中にゆさゆさ揺れ始めたので、コンビニの駐車場に停めて、揺れながらラジオを聞き入った。
すさまじい模様を一生懸命伝えているが、想像付かない。
首都圏は先ほどの火事はあったものの、さほど被害はないようなので、とりあえず予定通りに帰ることにした。
どこかの店に入ってゆっくり飯というわけにはいかなそうである。


ようやくのことで高崎の市街に下りてR17に出ると、大渋滞である。たぶん早目の帰宅命令も出ているのだろうが、ちょっとこれはひどい。
ラジオの様子だと東京もけっこう混乱しているようだ。ディズニーランドでは液状化が起こったというし、思った以上に首都圏も揺れて被害があるようなので心配になってきた。
もう携帯は繋がらない。メールはかろうじて送信できた。非常時、携帯電話は本当に当てにならない。
ラジオがあれば外からの情報は入るが、連絡を取り合うことができないというのは気持ち悪いものである。
まず自分の安全は確保しつつ、戻るしかない。

こういうときTSO(T)はいつも被害現場から離れてのうのうとしていることが多い。今回もそういうパターンなのではと思った。
生活道具一式持って、母艦のトランポに、分離できる子機のバイクまであるという、完全自立状態であった。見回すと足りないのは食料と水である。一晩であれだけあったものはみんな食い尽くしていた。少なくとも水だ。ガソリンはまだ半分あった。渋滞を避けてエコ運転すれば家までは持つだろう。

激混みのR17は、藤岡から埼玉県境辺りになると停電で店が真っ暗、信号も点いてなくて警察官が手信号をしている。ラジオによると埼玉県内の信号は全て点いてないらしいので、水・食料を確保しつつ、国道を使わずに南下することにした。まずスーパーを探しに国道からそれた。

国道からそれても埼玉方向の車線は混んでいて、群馬へ戻る車線はすいている。水・食糧確保を優先し、高崎方面に戻るもやむなしで進んだ。群馬側は停電もなく、コンビニも普通にやっている。でもできたらスーパーで買い物したい(スーパーの方が安いので)。

しかしどうしてもスーパーに行き当たらず、背に腹は変えられぬとコンビニに入った。
そしたらそこは意外なことにリーズナブルなショップブランドがあったので、安く買い物ができた。
買ったのは、水2L、紙パックのお茶1L、6枚切り食パン、カップ麺1個、さば味噌缶詰。
ここで日暮れを迎えた。


ここからはカーナビを睨みながら、国道は使わず裏道を駆使して家路を急いだ。
裏道は空いていて、途中から停電も回復して信号も点いていたが、いくつか失敗もあった。
・裏道が県道など主要道に交差すると、そこにはろくな信号がない場合が多く、主要道がピクリとも動いてないとか右折車がいたりすると、裏道から動けなくなる。
・橋が被害を受けたのか通行止めにされていて通り抜けられない。

特に2回目の動けなくなるパターンがひどく、これでせっかくすいすい行っていたインターバルを使い果たしてしまった。

買った食糧は温存し、晩飯は道中のマクドナルドで済ませた。こんな道路状態なので材料の補充がきかなくなってると思ったのだが、マクドナルドは強かった。注文してから出てくるまで異常に時間はかかったが、バイトの女子高生ががんばっていた(家のほうは大丈夫だったんだろうか?)。牛丼屋もがんばっていたが、材料が尽きたか一端店じまいしてるのを見かけた。

携帯メールの方は20時ごろ回復し始め、家族とも連絡が取れた。早めに不安がなくなったのはゆとりを生んで幸いであった。
渋滞で動かないときはエンジンを切ったりしてエコ運転し、ガソリンは家までもった。しかしラジオをずっと聴いていて、製油所に被害があったことやタンク火災、尋常でない道路の混乱などから、燃料に規制がかかるのを危惧したTSO(T)は、翌日(3/12)午前中にはガソリンを補給しておいた。車の使用も原則禁止した。

そして無事帰宅すると、荷物も降ろさずテレビに見入った。
もう絶句である。

しかし本震が大きかっただけに余震も油断を許さない。旅は終わり、キャンプ道具は荷解きするが、引き続き出番に備え、心の準備をするのだった。

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コメント 2

すみすみ

榛名山にいたのは聞いてましたが、帰宅が大変だったのですね。
高崎からもえらい渋滞とは。
私の職場=オペラシティービルもえらい揺れて。
当日は鉄道が止まり、皆徒歩帰宅かホテル、会社泊まり。
私はたまたま会社休みで帰宅難民にはならず。
そういう意味ではTSOさんと一緒ですなあ。
地震も凄かったですけどその後も影響おおいきいですね。
電車、コメ、水、計画停電、仕事面。
あと、電波時計が効かないのは驚きました。
福島おおたかどや山の局が避難命令=停波。
しばらく収集つきませんね。
by すみすみ (2011-04-02 14:37) 

TSO

ども、すみすみさん。
帰宅難民の方がよっぽどひどかったようですから、お互い休みでよかったですね。
電波時計が影響受けているとは知りませんでした。
by TSO (2011-04-06 01:05) 

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